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東京高等裁判所 昭和23年(わ)141号 判決

上告人 被告人 株式会社大林組

弁護人 井本台吉

檢察官 酒井正己関與

主文

原判決中被告会社に関する部分を破毀する。

本件を横浜地方裁判所に差戻す。

理由

本件上告の趣旨は弁護人井本台吉作成名義上告趣意書と題する書面に詳かであるからこれを末尾に添附してその摘録に替える。これに対する当裁判所の判決は左の通りである。

同趣意書第二点に対する判断

法は規範を定立して一定の行爲はこれを爲すべしと命じ、若しくはこれを爲すべからずと禁止し以てわれわれに一定の態度を義務つけておるが法は不能を強いるものでない、規範はその内容たる命令若しくは禁令の履行の可能なる事を前提とし、これを限度とする、而してその可能といい不可能というも絶対的意味における能不能をいうのではなく一般普通人にとつて義務の履行が可能なりとして期待せられるかどうかを標準とするのである、一般普通人が被告人と同一の地位状況の下におかれても問題の違法行爲をせないで他に適法行爲をなすことを期待し得ないときには被告人の違法行爲を非難するのは難きを強ゆるものである、これは刑法の人間性の否定であつて却つて法の権威を失墜させるおそれがあるのであつて法の精神ではない。この趣旨は現行刑法上直接の規定はないが、所謂責任能力に関する規定は間接にこの趣旨を窺知せしめるに十分である、即ち刑法第三十九條乃至第四十一條の規定は精神発達の未熟若しくは精神障礙の爲の責任能力のない者に対し他に適法行爲をすることを期待することができないからこれを罰せずとしておるのである、故に普通の場合には義務履行が期待せられる責任能力者でも諸種の事情から義務履行を期待する事が出來ない場合に敢てこれを罰するのは上述の刑法の規定の精神に背くものと認むべきである。判例も難きを強ゆるは法の精神でないとしているのである(昭和五年二月二十八日大審院判決、判例集第九巻八二〇頁昭和十二年六月三十日大審院判決、同集第十六巻一〇七四頁。)

ところが期待可能性の有無を判断するには行爲当時の諸般の事情を檢討すべきであるが法益の比較評量においても必ずしも刑法第三十七條の如き制限に服すべきではない、小なる法益を護るため大なる法益を害する場合でも附随事情の重圧のため適法行爲をなす事を期待し得ない場合もあり得るのである。

原判決を見ると所論の如く金子正光の本件行爲は過剩避難であると判断すべきものである以上法益の権衡を考えることなく期待可能性の理論を以て刑事責任なしとする所論はこれを採用しないと判示し法益の権衡が破れておる以上期待可能性なしと認めるの余地なきものとして弁護人の主張を排斥しておるが前述の様に法益の権衡ということは期待可能性の有無を定めるに重要なる一資料なるに相違ないがその限度を定めるものではないから原判決が法益の権衡を失するという理由を以て右弁護人の主張を排斥したのは責任の本質である期待可能性の意義を誤解したもので違法である、而してこの違法は判決に影響を及ぼすべき事勿論であるから論旨は理由があり原判決はこの点に於て破毀を免かれない、論旨第一点及び第三点は已に右第二点を容れ原判決を破毀する以上判断の必要なきものと認めこれを省略する。

而して原判決の確定した事実だけでは期待可能性の有無を断ずるには不充分で更に行爲当時の諸般の事情を檢討する必要あるのであるが本件は当審に於て事実審理を爲すを適当ならずと認めるから原判決を破毀し本件を原裁判所に差戻すべきものとする。

以上の理由によつて刑事訴訟法第四百四十八條ノ二に從つて主文の如く判決する。

(裁判長判事 吉田常次郎 判事 保持道信 判事 細谷啓次郎)

弁護人井本台吉上告趣意書

第二点仮に第一点の論旨が理由ないとしても本件の行爲は当該場合他に適法な所爲に出でることが期待し得ない場合であるから、金子正光に付ては勿論、被告会社に付ても、所謂道義的帰責を生じ得ないものと解するのが相当である。然るに原審はこの点を判断するに際り其の関係事実を證據に依り認定しながら、金子の行爲が過剩避難と判定せらるべきものである以上、法益の権衡を考える事なく期待可能性の有無を論ずる余地なき旨を判示している。然しながら期待可能性なき場合は、所謂犯意を阻却する事由の一として近時学説の肯認する所であり、判例も亦上官の命により抗拒し得ずして殺人行爲に出でた場合を犯意なきものとして、其の道義的責任を阻却せしめている(大正十二年十二月八日陸軍軍法会議判決参照)。而して其の趣意とする所は、行爲自体に仮に違法を阻却する價値なしとするも其の結果を犯人に帰せしめ得ない主觀的倫理的事情あるときは、刑事責任を負担せしめるに足りないとなすものである。然るに原審はこの責任を生ぜしめ得ない主観的事情を事実として容認しながら、輙く違法性の要件を責任の要件に採入れて、本件の行爲が犯意なきものと主張する弁疏を排斥したのは、法律の解釈を誤つた違法あるか又は少くとも理由不備の違法あるものと断ぜざるを得ない。(他の上告論旨は省略する。)

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